明け方,あちこちから電話や目覚ましの音が聞こえてきた。なるほど,夕日だけじゃなくて日の出と遺跡の組み合わせを狙っている人もいるのね。でも生憎の曇空。私は早起きする気もなく,マイペースで7:30に起床した。 朝はホテルのレストランでbuffet。さきイカのようなひもチーズは以外としょっぱく,白プリンみたいな柔かいチーズは適度な塩加減で美味しかった。ああ,今日も朝からおなかいっぱい食べちゃった。 食堂の真ん中のテーブルを陣取っていた団体は,英国人のようだった。奥の婦人2人は米国かカナダかな?シリアをテロ支援国家と非難している英・米国の人間も,自由にできる土地柄なんだ。割と寛大な国なのね。 食後,ホテルの前に広がるパルミラ遺跡へお散歩気分ででかける。柵もロープもなく,管理人もいない。道路の脇からでも自由に遺跡内に踏み込むことができる。国一番の観光地で入場料をとらないなんて,ちょっと信じられない。 遺跡をゆっくり歩き回る。早速,ラクダを引いたお兄さんがこちらへ向かってきた。「ラクダは楽だ〜」なんてお決まりの文句を言いながら。「私は歩いてこの遺跡を楽しみたいのでラクダは要りません。」と何度も繰り返すのだが,しつこい。「じゃあ,あっちのエラベール家の塔墓まで往復でUS$1だよ。」「あっちに行くときは,自分の車で行くからいいの。」US$1のお金が惜しいわけではないが,気ままにゆっくり一人で歩き回りたい私は,誰かに邪魔されるのはごめんなので,頑として拒否。頑なな私の態度についにあきらめて,ラクダ使いのお兄さんは去っていった。
お茶のお礼にとポラロイドカメラで写真を撮って渡した。そのうち,さっきのラクダのお兄さんが通りがかった。和やかにおしゃべりしているところをまた邪魔しに来たかと思っていたが,そうではなかったようだ。親子とは顔見知りらしく,少し挨拶をして,ポラロイドで撮った写真を興味深げに眺めたりしていたので,お兄さんの写真も撮ってあげた。「お礼にタダで載せてあげるよ。」とまたラクダに乗せようとする。無理やり乗せて料金を請求されても困るから断っていたが,「大丈夫,本当にお金はとらないから。」という言葉を信じて,乗ってみることにした。初めての乗駱駝体験。跪いたラクダの背にうんしょこらしょとまたがると,ラクダが立ち上がった。しっかりつかまっていないと落ちてしまいそうだ。慣れないせいか,乗り心地はそれほど良くもない。 ふーん。どこまで信じていいのかわからないけど,お兄さんの主張もわかる気がした。押し売りとしか見ていなかった彼とちょっと親しくなった感じで,記念門へ戻るときには少し個人的なおしゃべりもしたり。職業を聞かれたので,「コンピュータエンジニアだ。」と言うと,「ボクはラクダ・エンジニアだ。」と笑っていた。彼は観光客相手にバクシーシ(金品の寄付)をねだるのではなく,ラクダで観光するというサービスを提供してその対価としてお金を稼いでいるということに誇りを持っているようだった。イスラム教では,バクシーシを請求することは特に恥ずべきことではなく,相手に善行の機会を与えるのだからむしろ堂々としてよい,という考え方が
あるときいた。イスラム教徒にはそれが浸透しているものと思っていたが,ラクダ・エンジニアは少し違った考え方なのかもしれない。 円形劇場や神殿など,きれいに残されている遺跡の間を気の向くままゆっくり歩いて古代に思いを馳せたかったが,あちこちに物売りの人が待機していて,静かに見て回る余裕を与えてくれない。 道路をはさんだ向かいのベル神殿には,入場料があった(150SP)。ここではその上「ガイドは英語で?」と当然のように聞かれてびっくりした。えっ,ガイドって必須なの?
いや,そうではないらしい。勝手気ままに歩き回りたいので,断った。 高校生ぐらいの若い学生の団体さんがいた。奈良・京都を巡る修学旅行みたいなものだろうか。東洋人が珍しいのか人の顔をじろじろ見て,「シーノ」(中国人)と言 った子がいた。私にはシリア人とレバノン人とヨルダン人の区別はつかないんだから,あっちからすれば中国人か朝鮮人か日本人なのかはわからないだろうね,確かに。 神殿を囲む塀にのぼって外を眺めたら,一面緑が広がっていて,思わず「うわー。」と声をあげてしまった。これまで乾いたベージュ一色しか見ていなかったのに,一転ジャングルかと思われるほど濃い緑が遠くまで続いている。パルミラって本当に砂漠の中のオアシスなんだね。 神殿を出ると,さっきのラクダ・エンジニアがいた。お互いに気づいて「やあ」と挨拶を交わす。 チェックアウト時間より前に戻ったのに,荷物を車に積み込んでいた私はチェックアウト済みと思われたか,閉めだされていた。既に次の客が部屋に出入りしている。下着干したままだったのに。プンプン。物売りやガイドを断るのに疲れてきて,人との交渉が面倒になり,精算してそのまま立ち去ることにした。 頼んでもいないのにレンタカーを磨いてくれたおじさん,ありがとう(苦笑),しょうがないなぁ,小銭なんて用意してないのに。「お釣はいらないよね」と大きい額のお札を勝手に持っていく。お釣返してよ,と文句を言うのもおっくうだ。なんだか疲れているな,私。 団体客が遺跡巡りから帰ってくるのを待っていた様子の大型バスの運転手さんを見つけた。この人はジェントルマンだった。Rに入れるには,ギアの頭のちょっと下にあるひっかかりを人差し指と中指で持ち上げなければいけなかったのだ。自分は運転席に,私を助手席に乗せ,一度自分でやって見せた後,席を交代して教習所の先生のように「ほら,もう一度やってごらん」と教えてくれた。代価を要求すること もなく。ああ,よかった。ご親切に,ありがとう。おじさんもよかったねとニコニコ。 墓の谷やエラベール家の塔墓の方へも行ってみたが,洗濯物がはためくのを見て,車から降りるのはやめてしまった。 とても一人静かに遺跡を見て回ることができそうもなかったので。 |
|
遺跡を歩く虫やトカゲ。すばしこい。 |
|
コラム:ザカート |
イスラム教の基本的な考え方にザカートというものがある。日本語では喜捨とか寄付とか訳される。物質的に裕福な者が自分の収入のいくらかを貧しい者に供出するというもの。その人の年間の収入からザカートの金額はきちんと算出されることになっている。 ザカートを行うことにより,財産供出側は物欲をなくし,貧しい者に対する寛大で慈悲の念を育てる。享受する側は,金持ちに対する羨望や反感を和らげる。また,現世での行いが来世での幸せにつながるため,イスラム教徒の持てる者は 進んでザカートを施し,持たざる者は正当な権利としてそれを受け取る。 教義が生活に浸透しているイスラム社会のこのような背景を認識しつつ人々と接すると,図々しいなと思われる人々の振る舞いにも,納得できるのである。逆にいえば,旅人が見知らぬ人に手厚いもてなしを受けるのも,宗教的な教えが人々の考えの根底にあるからなのだろう。 こういった考え方はイスラムのみならず,仏教にもキリスト教にもある。仏教ではお布施,旦那と言われる。日本人にとってもっと身近な言葉で言えば,「情けは人のためならず」。 自分一人だけの利益を優先して生きることは難しいし,人間社会全体から考えるとあまり望ましくないことと認識されるだろう。多種多様な人間が共生する人間社会にはいろいろな形の救済システムが必要なのだろう。その救済システムの一部をイスラム教ではザカートといい,日本語では「情けは人のためならず」というのかもしれない。 遍く人々に信仰されるような宗教の教義には,普遍の考え方があるのかもしれない。 |
< UAE入国 > < シリア入国 > < 世界最古の町 > < パルミラへ > < パルミラ遺跡 > < ハッサケ > < ハマへ > < 天空の城 > < レバノン入国 > < フェニキア人の故郷 >
TOMBOY home > 旅行記 海外編 > 中東 > パルミラ遺跡
<このページの最終更新日:08/10/30 >