アルゼンチン

連想ゲーム

6:30にめざめる。すっきり。深い眠りだった。
コルドバへ戻る。南市場の駐車場に停め、お昼まで自由行動とする。
昨日通った歩行者天国をふらふら歩いてみる。休日でもないのに、結構人通りはある。人だかりがしている。音楽も聞えてくる。おじいさん二人がギターの演奏をしていた。音楽がいいのか悪いのかわからないが、二人が音楽を楽しみながら演奏しているのがわかって、なんだかこちらも楽しい気分になる。目の不自由な人のようだった。
performance
street tv しばらく行くと、また人だかり。どこかのショーウィンドウの中のテレビに皆見入っている。なんだろう?高層ビルから煙が上がっている。どこの都市の映像だろう?Nuevo Yorkって出たけど、まさかと思うけど米国のNew Yorkのことだろうか?アルゼンチンにも似た名前があるのかしら?テレビはスペイン語で、周りの人もスペイン語で、詳しい事がわからない。
ソブレモンテの家歴史博物館へ行ってみた。相棒が行きたいと言っていたのを思い出してふらっと寄ったので、なんの前知識もない。とにかく古い屋敷ってことだろう。一人で自由に周れるのかと思ったら、ガイドについてまわらないとダメなんだって。他の客が荷物を預けていたようだったので、撮影禁止かと早合点してカメラを預けてしまった。あとで違うとわかって残念。

ガイドが戻ってきた。今度のツアー客は私一人らしい。一対一だ。緊張する。ガイドは中年の女性だった。あらかじめ、スペイン語がわからないんですと宣言したのに、マニュアルどおりとうとうと説明してくれる彼女、どうしよう、全然わからないのに、わかったふりこのまま行くのも苦痛だし、と困惑した顔をしていると、「じゃあ、こうしよう、あなたがこの部屋について質問があったら聞いてちょうだい」ってことになり、今度はただ黙々と部屋から部屋へと移動する。うぅ、緊張するよ、この沈黙。一人で気ままに見て回れると思っていたのにー。

ここはxx、と簡単に説明してくれる単語さえわからない。わからない顔をすると、手かせをはめられたゼスチャーをした。ネグロって言葉を出し、えーとね、と身の回りをきょろきょろし始めた。あ、黒いものを探してるんだなと思って、私は自分の髪を指して、「ネグロ?」と聞くと、Si、Siと喜んでうなずいた。へー、黒人の奴隷がここにもいたの?「ネグロ アフリック?」そうそう、アフリカ人の奴隷がここで働いてたのよと彼女。意思疎通ができて、なんだかちょっと意味が違うかもしれないけど、私は、ヘレン・ケラーが井戸の水を手に浴びてwaterと言ったときのサリバン先生の気持ちを思い出していた。そうよ、それよ!
伝えたいことが相手に伝わったときの感動。お互いにそれを感じて、なんだか気まずい感じがいっぺんになくなった。彼女も言葉を選んで私にわかるかな?という気持ちで説明してくれるようになった。彼女の英語は、私のスペイン語と同程度で、ゼスチャーや簡単な単語で伝わらないときは、英語の単語を一生懸命記憶の中からひっぱり出してくれる。私も思い出せる限りのスペイン語を駆使して(というほど数はないけれど)質問したり答えたりした。

 

コラム:マルコ時代のアルゼンチン

ヨーロッパ人が『新大陸を発見』する前の15世紀と、マルコがアルゼンチンに初めてやってきたと思われるその400年後とでは、南米の人種構成は大きく異なる。以前から住みついていたモンゴロイド系(黄色人種)の住民は後から植民してきたヨーロッパ系のコーカソイド系(白色人種)に追いやられ、19世紀後半の大量移民により、アルゼンチンはほぼ9割以上がヨーロッパ系で占められるようになった。

少なくなった原住民の代わりに、アフリカ諸国から連れてこられたネグロイド(黒色人種)が廉価な労働力として使われるようになり、南米の人種構成も、文化も融合されるようになった。各人種間の混血も進み、新たな音楽も生まれた。ちょうどマルコがアルゼンチンにやってきた1880年代にブエノスアイレスで盛んになり始めたと言われるタンゴは、原住民のフォルクローレと移住してきたヨーロッパ系の音楽と、アフリカの音楽と、いろいろな要素がミックスされてできた音楽だという。


コルドバのショッピング街の入口にある教会w

 

「あれは、xxよ。」と、彼女は建物の壁を指した。
「?」と私。
えーと、そうだなあ、太陽を指して腕を指す。彼女の腕、私の腕を取って何か探してる。あ、わかった、時計でしょ?と、ポケットに入れていた時計を出すと、そう、それそれ!と笑顔。
へーえ、日時計なのかあ。そもそもこの屋敷がいつの時代のものなのか、わからないのでそれが珍しいことなのか時代に即したことなのかよくわからない(後でわかったことだが、ソブレモンテの家は18世紀に建てられたお屋敷)。
こじんまりしたベッドルームに入った。お人形やきれいな置物があったりして、女の子の部屋らしい。えーと、エル・ニーニョが男の子なんだから、女の子はニーニャだっけ、私「ニーニャ?」そうそう、と彼女。男の子の部屋はあっちよ、分けられてたの、と言った(ような気がする)。クリスマスツリーにつける飾りというのもあった。ゼスチャーでする連想ゲームをしているかのようで、なんだか楽しい。彼女も、言ったことが大方伝わるので楽しんでいるようだった。

螺鈿(らでん)細工の置物があり、中国製の?のつもりで、「チーノ(Chino)?」と聞くと、そうだと言う。気持ちが通じて親しみを感じてきたからか、彼女は逆に、私に個人的な質問をしてきた。
あなたはチーノ?「ノー。ソイ ハポネッサ。(No. Soy Japonesa:いいえ。私は日本人です)」これだけは暗記していたのですらっと。「ここへはいつ来たの?いつ帰るの?」えーとね、数は覚えたはずなんだな。待てよ、15はなんだっけ?1、2、3、4…と数え始め、11あたりから怪しくなってくると、一緒に数えてくれた。「11、12、13、14、15、16、17、18、19、20。15はキンセquinceよ。」一緒に数の数え方の復習をしていると、ツアーは終りになった。預けた荷物の引換券をポケットから取り出して、私はその番号を大声で言った。
「キンセ!」
二人で大笑い。荷物係の人たちはぽかんとしている。

記念に写真を撮ろう!とお願いした。彼女も嬉しそう。
「ここに座ろう」と言って、彼女はまた、実際に立ったり座ったりしながら、「立つ、座る、立つ、座る、座るはセンタードsentadoよ。」と教えてくれた。もう、すっかりスペイン語の先生のつもりでいるらしい。
Sobremonte courtyard
「じゃーねえ、ありがとう!いい旅をね。」
何度か抱きしめて、顔いっぱいの笑顔で見送ってくれた。
こういうコミュニケーションできると、本当嬉しいなあ。辞書を持っていたら、もっといろいろなことが話せただろうか?そうかもしれないけど、伝わったときの感動は薄いかもしれないな。

 


土産物屋に並べられていた名産(?)品
インターネットカフェに寄って、今朝ちらっと見たあの不吉なニュースを確かめたかったけど、もう時間がないや。今日泊まる街で確かめよう。
結局、ソブレモンテの家博物館に行きたいと言っていた当の相棒は、行かなかったらしい。「それはそうと、なんだかニュースでどこかが攻撃されたってやってて、なんかニューヨークみたいだったんだけど、知らない?」と言うと、彼女は見なかったらしい。
コルドバを出て北へ向かう。Jesus Mariaという聖なる名前の町のレストランに立ち寄り、遅いランチを取る。客は皆テレビに向かって座っている。人だかりもないので、今度は音声もよく聞こえた。CNNニュースの英語も時々聞えてくる。
私達は凍りついた。ちょちょちょっとまって、ニューヨーク、ワシントンDC、ペンシルバニアって言わなかった?それって全部、5日後に私達が行こうとしてる所じゃない?
あの映像は本当にニューヨーク?ペンシルバニアの一体どこ?どうしてこうなったの?誰がこんなことしたの?私達、アメリカに戻れるの?
誰かに聞こうにも、スペイン語はできないし、英語のわかる人はいないし、国際電話をかけられるような公衆電話も見当たらない。真相は結局宿につくまでわからないのか。一気にどーんと暗い気分になる。
このレストランは、ホテルに併設のレストランだった。外にでて見て確信。わかってきたよ、HOTELの文字にFAMILIARとあると、普通のホテル、ハートマークや唇マークは温泉マークと同じだってこと。隣にもホテルがあり、その看板には唇マークがついていたのだ。

 

< アルゼンチン入国 > < コルドバへ > < 連想ゲーム > < 塩の海 > < はるかな北をめざせ > < タッチ&ターン > < 初マテ茶 > < 銀の国と金の国 > < アルゼンチンのマドンナ > < テロ直後の米国 >

 

TOMBOY home > 旅行記 海外編 > アルゼンチン > 連想ゲーム

<このページの最終更新日:06/03/06 >