アルゼンチン

テロ直後の米国

ブエノスアイレスの空港では、セキュリティチェックが少し念入りでチェックインに少々時間がかかったが、そのために大きく遅延することはなかった。多少出発は遅れたものの、到着は予定通り。機長は、必ずや無事に予定通りお届けしますとアナウンスし、言葉どおりアトランタ空港に着陸すると、乗客から拍手が起こった。皆、米国に入国する飛行機に搭乗するということで、かなり緊張していたのだと思う。

私も、不安できつい顔をしていたに違いない。米国の入国書類を書き損じた(だってスペイン語でわからないんだもの)のでもう一枚もらいに行くと、

  「もうなくなちゃったわよ」

と客室乗務員。 次の瞬間、彼女の顔がほころびて、あなたに笑ってほしくて冗談言ったのよ、と朗らかに緑のカードを差し出した。
笑顔が人の心に元気を取戻してくれることを思い出させてくれた。
デルタ航空で 働く彼女はおそらくアメリカ人だろうし、今度の事件で航空会社も大いに影響を受けているだろうに、 乗客の心を和ませようとする彼女のプロ精神は素晴らしいなあと勇気づけられた。 

アトランタの空港では、乗り継ぎ便の出発時刻が迫っていたのに行き先もチケット引き換え場所もわからずうろうろしていたところ、どうかしましたか?と元気そうなお姉さんが声をかけてくれた。そのターミナルにいたということは、彼女もきっとDeltaの職員だ。ターミナルEに乗り換えるのよ、行き方はわかる?大丈夫?と丁寧に教えてくれた。あ、乗り換えのチケットがない!…とまたあたふたする私、彼女が他の人に聞きまわってくれたりしたが、結局ちゃんと前のチケットについてることがわかって申し訳ない思いで、ありがとう!と言うと、全然!no problemってすごく気さくだった。こういう親切にあうと、ほっとする。

アトランタからすぐにニューアーク(マンハッタンの隣のニュージャージー州の空港)行きに乗り換え。いまだかつて、これほど緊張したフライトはない。ほかの乗客も、誰か不審な人が同乗してはいないだろうかと緊張した面持ちでいる。
フィラデルフィアの懐かしいビルや塔が見えてきた。やがて右手に現れたマンハッタン。

World Trade Centerの辺りからは、事件後5日たってもまだ白い煙がもうもうとあがっていた。テレビニュースでは見ていたものの、その痛ましい光景を目の当たりにして、胸が痛む。涙が出そうになる。

空から見た限りでは、東海岸を走る高速道路I-95も通っているようだ。レンタカー事務所でも、Hollandトンネルが渋滞なだけでNYC付近の道でclosedされている所は無いとのこと。いろいろな規制があるかと思っていたが、案外自由に動けそうだ。

2、3日ペンシルバニアやニューヨークの友人を訪ねたりして過ごした。何でもない日でも、アメリカ人は国旗を掲げるのが好きだが、今回、フィラデルフィア近郊を走っているときには、その数が異様に多いのに驚いた。

米国到着の翌朝の朝刊の見出しは『Be prepared to war』(戦争準備OK)、『これ以上の悲劇があっても』『石油の欠乏が起こっても』『この戦争が長く続くとしても』という条件つきで調査した世論も、戦争に賛成という数値が出ていて、暗澹たる気持ちになった。

そういえば、この夏は太平洋戦争の映画『パールハーバー』が上映されていた。米軍が東京を空襲する場面では、喝采が起こっていたと聞く。
滞在中、アメリカのニュースでは見なかったが、アルゼンチンのニュースで、『パールハーバー以来の史上最悪の惨劇』と紹介されていたのは、ショックだった。

右の写真は、ショッピングモールの中心にあった寄せ書き。God bless America の言葉で埋め尽くされている。

アメリカ人の友人数人とも事件のことを話したが、誰もが事件のことにショックを受けていた。朝刊の内容にも関わらず、そのうちの一人は戦争反対意見だった。
アメリカがこの事件をどう決着をつけるのか、とても難しい、多かれ少なかれ、皆影響されるだろう、自分は兵役の年齢(18-24)からは外れているが、今後どう状況が変わるかはわからない、兵役拒否はできないが戦争には賛成できないと。

帰りのJFKからの直行便のステータスは、相変わらずキャンセルのまま。結局ニューヨークに来たと同じ経路で、ニューアークから再びアトランタに戻り、アトランタ発成田行きの便に変更になった。
(その後、デルタ航空のニューヨーク−成田直行便は廃止されてしまった)

帰国前夜、マンハッタンに入り、ニューヨーク在住のひろゆき氏とその友人N氏(私の元同僚でもあるのだが)に会った。日中は歩いていないので様子はあまりわからなかったが、通りを行き交う人や店は、いつも通りの活気のあるニューヨークと変わらないように見えた。

しかし、WTCのビルのすぐ近くに職場があるN氏によると、IDカードを見せないと通行できないなどいろいろ不便な状況にあるらしい。また、レストランの隣のテーブルの人の出したクレジットカードがなかなか返って来なくて、ネットワークがまだ完全に復旧していない様子であることが窺えた。そういえば、ペンシルバニアの友人が、ボランティアでネットワークの復旧作業のためニュージャージーに出かけると言っていた。

外に出ると、エンパイアステートビルが赤白青の(国旗の)三色になっていた。
フィラデルフィアのセンターシティにあるビルも赤白青のライティングになっていた。国中が国旗や国旗の色で埋め尽くされている。

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ニューアーク空港を飛び立ったのは早朝で、マンハッタンのビルが朝焼けに浮かんでいた。一番高くそびえ立っているのは、エンパイアステートビル。いつもはその右手に見えていたツインタワーの場所からは、いまだ白い煙が立ち昇っていた。

 

アルゼンチン旅行の感想あれこれ

今回のドライブ総走行距離は3200km。事故も故障もなく無事だったのは幸運だったのかもしれません。ケチらないでもう少し大きな車を借りればよかったと後悔しました。長い距離を高速で走るには、サイズが大きい方が疲れないし、心強いので。

出会う人々が皆暖かかったのが印象的でした。ラテンな乗りでもっと積極的なのかと思うと、どちらかというとシャイ。でも誠実な感じ。意外と、大陸的なおおらかさっていうのは余り感じませんでした。皆好意的で、話をしたがってくれました。もっとコミュニケーションとればよかったな。

アルゼンチンの大きさを甘く見ていました。もう少し早く回って、できればパラグアイやウルグアイにまで足をのばせたらと思っていたのです。後半の旅は、精神的なダメージが強く、それどころではなくて、旅を楽しむことができなかったのが残念。

アルゼンチンの自然に触れるには、やはりバルデス半島やパタゴニアに行かないとだめかなと思うので、是非また挑戦したいです。アルゼンチンワインをあまり飲まなかったのも心残りの一つ。

車でも辛いこの距離を、一人で歩くというのは現代で考えても、すごい。でもマルコには言葉のハンディはないものね。イタリア語とスペイン語ってどのくらい通じるものなんだろう?
どこかの宿で、マルコが「こんにちは」と言っただけで、「おや、あんたイタリアの子だね。」と言われてしまうのだから、かなり単語など違うと思うのだけれど、言葉が通じないや、なんていう場面は皆無だったし。

とにかく、子供の頃から憧れていた『草原の中、はるかな北をめざす』旅を無事に終えることができて、満足。地球の反対側の遠くて見知らぬ国だったのが、かなり親しみのわく大好きな国となりました。
帰国後さらに経済事情が悪くなって、人々の生活が苦しくなっている様子をニュースで見ると、旅の途中あった人々はどうしているだろう?と思い出されます。今年開催されたワールドカップは、そんな厳しい生活を送るアルゼンチンの人たちの希望だったと思うけれど、残念ながら優勝まではいきませんでした。
アルゼンチンの人々が希望を捨てず、楽しい生活を送れるように祈らずにはいられません。

 

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<このページの最終更新日:06/03/06 >